タマラ・ド・レンピッカは肖像画家としてもっともファッショナブルな女性であった。

とってもきれいな美貌の持ち主であり、両性愛者でもあるタマラ・ド・レンピッカ。

ここではそんな彼女の生い立ちや作品などに触れてみたいと思います。

タマラ・ド・レンピッカはどんな人物だったのか?

タマラ・ド・レンピッカ

ポーランド生まれの女性画家。

フランスに亡命し、上流社会の人事たちを描く肖像画家として有名になった人物であります。

そんなタマラ・ド・レンピッカはロシアとスイス二つの国で暮らしていました。

18歳になった年には弁護士と結婚。

その後、ロシア革命が勃発し、パリへと亡命します。

しかし、亡命したもののパリでの生活は精神的に苦しい時期がありました。

その一番の原因は働かない夫。

それからタマラ・ド・レンピッカは絵を描くことを決心し、画家として一躍有名になります。

しかし、第二次世界大戦が原因でまたアメリカへ亡命を決行。

アメリカではハリウッドやニューヨークで成功を収める。

しかし、1950年代になると、彼女の作品は流行に遅れてしまいます。

もっと自由な様式を試みてみるが、人々の反応は冷淡でした。

このように美術界と世間から完全に忘れ去られていた彼女でしたが、晩年の1970年代に入ってから彼女の作品は、再び注目を浴びることになります。

タマラ・ド・レンピッカの様々な作品は死後も若い世代に熱烈な支持を得ていました。

タマラ・ド・レンピッカの夫と男性遍歴

タマラ・ド・レンピッカの最初の旦那は彼女が15歳の時にオペラ劇場で初めて見た男性でした。

もともと美しい男性が好みだったので親戚の叔父のコネをうまく利用して彼と結婚。

結婚した男性はポーランド人の弁護士だったのですが女たらしとしてかなり有名な人だったそうですね。

タマラ・ド・レンピッカは男性遍歴だけではなく、実は両性愛者でもありました。

男性でも女性でも関係をもっていた彼女の行動は当時かなりのスキャンダルとして扱われることが多く、当時の美術界はかなり騒いでいたのです。

タマラ・ド・レンピッカの娘・キゼット

タマラ・ド・レンピッカがロシア革命から逃げて落ち着いたパリでの生活。

しかし、その生活はとっても不安に包まれた暮らしでした。

その時に娘のキゼットが生まれます。

今後、どう頑張っても将来が見えないパリでの生活、そこで自分のちからで生計を立て直そうと画家になると決心します。

もともと才能もありましたが、必ず成功したい意思が非常に強かったので彼女の実力は短時間で驚異的な進歩を見せます。

キゼットが生まれたことをきっかけにタマラ・ド・レンピッカは自らの力で上流社会へと上り詰めたのです。

タマラ・ド・レンピッカが手掛けた芸術作品の特徴

まずこちらではいくつかタマラ・ド・レンピッカの作品をご紹介したいと思います。

Sharing Secrets(打ち明け話)1928年作品

タマラ・ド・レンピッカが手掛けた芸術作品の特徴

レンピッカの成功への足がかりとなったが、ファッション・イラストレーターとしてデビューだった。自らもグレやビオネなど高級メゾンの服を着こなしていただけに、作品で描く服もとてもファッショナブルだ。

引用:vogue

My Portrait(自画像)1929年作品

タマラ・ド・レンピッカが手掛けた芸術作品の特徴2

生涯に数多くの自画像を残したレンピッカ。女性の社会進出がこれからという時代に、当時のステータス車ブガッティを運転する最先端の女性として自らを描いたこの絵は、彼女の名声をより一層高めることに貢献した。

引用:vogue

The Blue Scarf(青いスカーフ)1930年作品

タマラ・ド・レンピッカが手掛けた芸術作品の特徴3

1929年にNY旅行を経験し、レンピッカの作風はよりモダンに進化した。ボリュームのある幾何学的なモチーフとクールな色彩で女性の官能的な魅力を描き出す手法は彼女の十八番であり、今も見る者を刺激してやまない。

引用:vogue

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